平柄うちわ
明治15年(1882年)頃には「丸柄うちわ」に加えて、富屋町の卸問屋が「奈良うちわ」に範を採る男竹平柄うちわの製造を開始。明治20年には、吉田利七がこの技術を習得し、翌21年、東塩屋(現塩屋町)の自宅で工場を開いたのが「塩屋平柄うちわ」の始まりです。
※現在「丸亀うちわ」と言えばこの「平柄うちわ」を指すのが一般的です。
女竹丸柄うちわ
天明年間(1781〜1789年)、丸亀藩主京極高朗公の江戸留守居組・瀬山四郎兵衛重嘉は隣合の九州中津藩の足軽たちが女竹丸柄うちわ作りをしているところを見かけ、厳しい財政状況の打開策として「丸亀藩でのうちわづくり・技術の習得」を奨励しました。次々に団扇作りの習得者を国詰のものと交代せて、団扇工を養成し、藩の殖産興業として取り入れていきました。
男竹丸柄うちわ
寛永10年(1633年)、金毘羅大権現の別当、金光院住職宥睨(ゆうげん)*は、「金毘羅宮の御紋である天狗の羽団扇にちなむ@印入りの『渋うちわ』を、金毘羅参りのお土産として作ろう」と当時の讃岐藩主(生駒家)に勧め、大和の大村藩から熟練者を招いて製造を始めたのが『男竹丸亀うちわ』の起源です。
*宥睨(ゆうげん)は宥光(ゆうこう)という説もあります。