●京うちわ | |
京うちわの始まりは、南北朝時代に遡ります。当時、明と呼ばれていた中国や朝鮮沿岸地を荒らし回っていた倭寇(わこう)によって、西日本にもたらされた朝鮮団扇が紀州から大和を経て、京都の貴族の別荘地であった深草に伝わったのが始まりと言われています。柄が中骨と一体ではなく後から取り付けられる、挿柄という構造が、京うちわの特徴と言えます。 | |
●岐阜うちわ | |
長良川鵜飼い観光客用の土産品として作り始めたといわれています。現在の岐阜うちわの特色は、漆うちわ(現在はカシュウ仕上げ)と水うちわ(丸亀のガラスうちわに類似)であり、塗り物が主体で、その骨は丸亀、京都、千葉方面より仕入れ、貼立仕上げを行っています。 | |
●房州うちわ | |
房州うちわの歴史は、維新前、豊後松平家の士族からうちわの製法を学んだ那古(館山市)に住む忍足信太郎が、明治23年女竹を割いてササラのようにした「うちわ骨」を作る技術を地元で広めたのが始まりです。そして明治30年には同じ町の岩城庄吉が本格的に製造を始め、大正初年には技術も向上して、骨を編んで広げるまでの加工ができるようになったようです。完成品のうちわが作られるようになったのは、大正10年のことで、昭和初期には年間数百万本もの「房州うちわ」が生産されるようになりましたが、現在ではかなり激減しています。 房州うちわは柄が竹の丸のままで、半円の格子模様の窓に特色があると言われます。 |
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●茄子うちわ | |
三重県津市において作られ、その昔、文政(1820年)の頃、津藩の家中にて公暇の余業に茄子形の団扇を作ったものが始まりです。「その形の優美にして雅趣ありて家中の人々に賞用せられ、藩候も亦、特に命じて之を作らせ、将軍家への献上品となし、又諸大名への進物として利用された」と伝えられており、余業の手工であるため多くはできませんでしたが、明治維新後に本業として製造を始め、茄子団扇の名を各地にひろめ、津の名産品となりました。しかし、近年この手法を伝えるものが絶え、一部で古来の技法を学び、また改良を加えて細々と製造されています。 | |
●日永うちわ | |
「日永うちわ」は農家の人々が農閑期に作り始め、江戸時代には、旧東海道の日永宿(四日市市日永)でお伊勢参りの土産品の一つとして売られ、大変な賑わいだった様です。日永宿には約300年前から土産物屋が軒を並べ、中でもうちわは10数件の製造業者があり、京うちわと並んで、全国的にも有名でした。ところが、明治27年(1894年)の関西線開通で宿場は寂れ、土産物の売上も減り、段々と衰退していった様です。 美人画などの図柄と鮮やかな色合いが特色で、丸のままの女竹を使用し、骨の数が64本と多いので、弾力性がありよくしなるのが特徴です。女竹は、戦前までは市内の水沢地区に生えていたようですが、戦後は丸亀、千葉より骨を仕入れ、貼立仕上げを行っていました。 |
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●撫川(なつかわ)うちわ | |
撫川うちわは、寛文5年(1665年)に三河の城主板倉内膳正により公方に献上した旨の古文書が現存しているのを見ても、当時既に同藩士族にて相当精巧な品ができていたものと思われます。 元禄12年(1699年)、板倉越中守重高が封を現在の岡山市庭瀬に遷された頃に、隣藩撫川と共に両藩の士族の間において盛んに製作され、その後庭瀬藩方は次第に衰え、これに反し撫川戸川藩では、商人の間にも製造者が続出するようになりました。その後「撫川うちわ」として、当時中国・四国・九州各藩の諸侯に参勤交代の途次、江戸や国元への土産品として珍重がられ、天下にその名を広めました。 撫川うちわの特徴は丸柄で、女竹を64本の骨に割いて和紙を貼り、上部に雲形模様を配して俳句などを書き込み、その句に合わせて花鳥風月などの切り絵や透かし絵を入れていることです。 |
丸亀うちわの特徴は、柄と骨が一本の竹で作られているものが多いことです。柄は丸柄と平柄の両方があります。(有名な「京(都)うちわ」は「挿し柄」と言って柄と骨は別に作られます)
漢の時代の「中国のうちわ」にはすでに絵画や装飾があったそうで、中国のうちわは相当古い歴史を持っていることが分かります。(その「唐扇」は奈良時代に日本に伝わり、正倉院に納められています)
日本においては、飛鳥時代、高松塚古墳の壁画に描かれている「翳(さしば)」がうちわの原形だと言われています。